この記事は2007年12月のものです。現在の内容と異なる場合がありますのでご了承ください。
| HOME>INTERVIEW私のタクシー体験 |
![]() | ![]() |
|
![]() |
||
|
聞き手(名鉄交通社長)
金子暁男 |
||
|
長寿ボウラーの「西の横綱」として、96歳の今もなお現役でボウリングを楽しんでいる松井勇一さん。かつては名タクにドライバーとして在籍した先輩でもあり、昔の記憶はくっきりハッキリ。昭和10年代のタクシー事情から健康の秘訣まで、たっぷり伺いました。 金子 西日本で最高齢のボウラーだと伺いましたが、お元気でいらっしゃいますねー。毎週のように、ボウリングをなさっているんですか。松井 はい。週1回は行って、3〜4ゲーム投げています。今年2月にはボウリング場が誕生祝いをやってくれまして、テレビや新聞各紙が取り上げてくれました。 金子 スコアはどのくらいなんですか。 松井 私は92歳でボウリングを始めたんですが、93歳のとき215を出しました。最近はちょっと足腰が弱くなって、平均120くらいですかね。 金子 そうですか。今もご自分で車を運転していらっしゃるそうで。 松井 はい。今年2月に免許の更新があったんですが、目の検査にとおって、まだ大型2種を持っています。観光バスにも乗れるのが自慢です。「だれも乗ってくれないけどな」と言われますが。(笑) 金子 それもすごいことですね。 松井 私は昭和4年に免許証をもらってから、今まで無事故なんですよ。表彰もされました。違反はありますよ。一昨年も、農道を走っていたらスピードで引っかかった。免許証を見た警察官が「あんた、明治生まれですか」と言うから、「明治なら許してくれる?」と言ったら、「ダメです」(笑)。24キロオーバーでした。 金子 名タクにお入りになったのはいつごろですか? 松井 昭和13年くらいでしたか。私は3つのときにオヤジを亡くして、お袋一人で貧乏のどん底。大正14年に小学校を卒業して、名古屋のフォードの修理工場に住み込みで入ったのですが、「タクシードライバーになっていいカッコしたいな」と思った。でも方法が分からないんです。だから昭和8年に、市営バスの運転手を募集していたので試験を受けて、しばらく勤めて名古屋の地理を覚えてから、名タクさんに入ったんですね。 金子 なるほど。市営バスは入りやすかったんですか。 松井 いえ、120人受けて7人合格しただけです。実地試験はもちろんですけど、学科試験が非常に難しいんですね。3問だけなんです。「自動車は如何にして動くか」、「自動車とは如何」、「作動装置の図解説明と名称を記せ」。それだけ。 金子 整備の知識もないといけないんですね。 松井 はい。自動車のピン1本を見てどこのピンか分からないと、受からないです。それから交通法規や、地理ですね。 金子 バスの運転手とタクシー運転手で、収入はどちらがよかったんですか。 松井 市営バスのときは月給が55円くらいで、名タクはそれよりよかったですね。代用教員が17〜18円くらいの時代です。 金子 これ(右の写真)はいつごろのお写真ですか。なかなかいい男ですね。(笑)松井 昭和14年かな。車は1937年型のフォードです。名タクはフォードがほとんどでした。当時は2マイルまでが50銭。しばらくしてから値上げされて、2キロ50銭になりました。 金子 マイルからキロになったんですね。 松井 そうです。それまではガソリンもガロン。1斗缶1本が1円1銭と記憶しています。 金子 お客様は、どんな感じだったんですか。 松井 まずね、車に乗ったら、50銭か1円はチップを置くと決まっている。これが大きい(笑)。そのころのタクシーのあだ名は「雲助」。ガラの悪いときもあったんです。名古屋駅でお客さまを待っていると、それぞれのタクシー会社のポーターが、お客様の取り合いで。荷物は向こうの会社が持っていく、ご本人は名タクに乗っているとか。(笑) 金子 なるほど。 松井 祝言の送迎に行くと祝儀をもらえたんですが、盛大な式の割に祝儀が少ないときは、猛スピードで走ったり(笑)。そうかと思うと、農家の人が娘の祝言に行くのに、白茶けてしまったような紋付きと黄ばんだようなシャツを着ていて、50銭の祝儀をくれた。こんなありがたいことはないと、私は忘れません。 金子 運転手に祝儀を出すのは普通だったんですか。 松井 そうですね。だいたい2〜3円は出たものです。一番多かったときは、乗り降りのたびにいただきまして、最後に数えたら55円ありました。 金子 当時の乗務員教育については、何か覚えていらっしゃいますか。 松井 お客様が降りるときはドアを手で開けて、「ありがとうございました」と頭を下げながら、お忘れ物がないか車内を見回すと。それはよく言われました。 金子 今に生きていますね。 金子 戦後もずっと運転手をされて、その後、車の修理工場を始められたそうですね。松井 はい。長年の夢だったんですが、工場も2棟になり、子供から孫へと継いでいてくれます。だからもう満足ですね。よく子供たちに言うんです。「自分は金も何もないけど、人の持たない財産を持っている。それは2日や3日食べなくても、人と一緒に仕事をするバイタリティだ」と。貧乏で育ったおかげで、今日の自分があると思っています。 金子 そうでしょうね。今も工場には入られているのですか。 松井 いえ、孫に「来るな」と言われまして(笑)。今はボウリングもそうですが、5円玉の手芸を道楽にしています。五重塔とか宝船とか金閣寺とかを、5円玉で作るんです。もう100個くらいは作りました。あとはマージャンですね。 金子 健康の秘訣はおありなのでしょうか。 松井 私は20年以上前から、メニエール病といって、めまいがする病気が、年に1〜2回は必ず起きていたんです。それでいろんなものを飲んでもちっとも治らなくて、15〜16年前からドクダミ草のお茶を飲みかけたんですね。そうしたら1年でメニエール病が消えたんです。続けていたら、30年以上前から持病だった糖尿病まで治ってしまった。今はどこも悪くないですね。 金子 ドクダミ草は、たくさんお飲みになるんですか。 松井 自分で2リットルずつ煎じて、4〜5日で飲みきります。もうひとつは電気治療器を、布団の下に敷きっぱなしにしています。低周波とイオン発生器と超短波と、3つつなげるんです。イオンは血の流れがよくなるので、よく眠れますね。 金子 私も早速試してみます(笑)。今日は楽しいお話しをありがとうございました。これからも健康にお過ごしください。 [まつい・ゆういち] 明治44年(1911年)2月12日、四日市市生まれ。大正14年から自動車・飛行機などエンジンの修理一筋。昭和8年、名古屋市営バス、昭和13年ごろ名タク入社。昭和36年から自動車の修理工場を経営。 HOME>INTERVIEW私のタクシー体験TOP |
||